昭和52年7月23日 朝の御理解
御理解第69節 信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。●
私自身の信心を思うてみると、一遍でも信心が難しいものだなぁーと思うた事が無かったことを、今日改めて有り難いと思うんです。それはもう子供の時から、まぁー物心つく頃から神様に手を合わせる事を、まぁ教えられてきましたし、さまざまな難儀な問題はたくさんありましたし、本当にさまざまな、もうこれで(折れる?)かもしれんと言う節にも直面してまいりましたけれども、(?)一貫して、えー金光様を頂いている。そしてその間、まぁー改めて今日思うのですけれども、信心は見やすいものじゃとこう、私自身の信心はとこう振り返ってみます時に、一遍だって信心ちゃ難しいなぁーと思った事が無いことを、改めて思うてみて、改めて有り難い(思い?お礼?)をさせてもらった(?)なわけです。そこで何が信心を難しいもの、みやーすいものとも思わなかったですけれども、只だんだん分かれば分かるほど、信心ちゃ有り難いものだなぁーと分かってきただけであって、一遍だって難しいと思ったことはない。それは結局、どういうことからだろうかと思うてみる時に、無い命を(何遍?)も助けて頂いて、いわばこれはまぁー私の産まれてから、まぁ幼少時代という小さい時は、話に( ? )頂けりゃ、もうこの人は金光様のおかげで助かった、金光様の御恩どん忘れよるとこの人は、ばちかぶるですと言うてから、人に話す時でも婆がそんなふうに言うていました。だんだんおかげを頂いて、えー例えば、あーちょうど私も北京で(招集?)をうけて、そして何回もまぁ言うなら(死線?)をこえてまいりましたが、もういつの場合でも危機一髪といった時に助けて頂いた。本当に金光様の信心をするおかげで、こういうおかげが頂けれたんだ、という思い込みがありますから、神様に対するところの御恩というものが、しみじみしみ込んでおったからだと思うんです。ですから、困ったとか、あー難儀とかと言うことを信心においては、感じたことがなかった。改めてそれを思う。そしてその信心が、ならより本当に信心へと気づかせてもらって、こりゃ今までの信心じゃいけなかった、いよいよ本当の信心をさせてもらわにゃというて、もーそれこそさまざまな修行もさせて頂いた時代でも、難しいとは一つも思わなかったです。ねーもーそれこそ寝らん修行もするし、断食もするし、水業もするし、あーもしません、こーも言いませんといったような、もーそれこそ箇条書きするごとしにたくさんな修行に、言うならば縛られてしまっておるという時代でも、信心ちゃ難しいなぁーとは、一遍も思わなかったことです。もーいよいよ本当の信心を頂きたいという一念だけだったからでしょうねー。そうしていよいよ、ならそういうさまざまな、今の私から言うと、その時分の修行というものが、まぁ雑業というように感じます。そして、そういう修行があー本当のものじゃないと気づかせて頂いて、心行一つに絞らせて頂けるようになったら、もういよいよ信心は、楽なもの、楽しいもの、もー場合には、愉快で愉快でたまらないものになってきた。それがこんにちです。だから一遍でも信心に難しさを感じたことがなかった。それは、私がやはり良い信仰に(でおうて?)金光様のおかげを頂かなかったら( ? )なかったのだ。また、そういうことを次から次とおかげを頂いて、無い命を助けて頂いているんだという、天地の親神様へ対するところの御恩がもう当然のこととして( ? )おるのではなかろうか。そして、ならあー( ? )の方、ならより本当の信心を( ? )ようになって、ね、親に対する孝行の思いがたえなかった、神様に対する、うー、思いが神恩報謝の心がたりなかったと、でさまざまな手だてをもってそこのところを分かり、またそれを行じてきた。(?)それこそ火の業、水の業的な修行の中にも、えー難しいと思わなかった。結局「恩を知って、恩にむくいる」。そして、(いわいる?より?)本当の信心を身につけたいという求道意欲だけでしたから、修行を修行と感じなかった。そしてはじめて( ? )、ね、そうした普通から言うたらはぁーとても大坪さんのまねはできんといわれるような信心をしてきましたけれども、その時でも、なら難しいとは思わなかった。そして、言うなら今のような信心なら誰でもが( ? )。いうならば、信心がいよいよ見やすうなった。見やすいというよりも、有り難くて、楽しゅうして、そして愉快で、いうならばもう私の血肉になってしまって、きろうというてもきられない。と、いうほどしのものになってきて、まぁー今日の御理解を改めて頂かせてもろうてね、信心を見やすいものにするということはね、まずは、御恩が分かるということ。そして、本当の信心が分かりたいということ。恩も分からず、ただ神様とは御利益を受けるために、頼んだり、願ったりするための、が、信心だ神様だと言うようになったら、ところから、信心がたいへん難しいものになってくるんじゃないでしょうかね。( ? )参ったけれども、おかげだけは( ? )というても、もうそれからの信心はきつくなる。神様の御恩を思うただけでも、どんなにつかえておっても、神様のお心にふれたら、神様の思いが分かったら、あいすまんと言う心ばかり。( ? )何かといえば自分でする修行、またはさせられる修行、時にはやはりそれは大変難儀な事でもあった。苦しい事でもあった。けども、難儀な事があった、苦しい事があったけれども、なら信心がそういう時なかったら、もっと苦しい事であっただろう、( ? )あの時になっておったか分からない。今日の私は、ありえないと思うばっかり。苦しい事は、それこそあー食べるに食がなく、住まおうと思うても住まいがなく、着るというても(?)が無いというような、ね、いうならば本当に衣食住のおかげを受けておるという事だけでも有難い、のに私共の( ? )は、その衣食住がなかった。というような時代であっても、その事は苦しいけれども信心は苦しくない。いやむしろこういう時に信心がなかったら、もうどうなっとっただろうかと思うだけである。というごとしに信心と私というのは、密接というよりも私の中にあったという感じがいたします。だから信心がみやすうなる、例えば、おかげを頂くための信心が20年30年続いても、とても和賀心を求めるようにはなりませんね。「10年と信心が続いたらば、我ながら和賀心を奉れ」とこう(おっしゃいます?)言うなら恩にむくいるという事が当然の事として、なら長年の信心が続いてきた。信心の( ? )の事はわからんけれども、この神様のおかげで助かっておるんだという思い込みが誰よりも強かった。そして、さまざまな事に(息詰り?)いよいよいけなくなって、それこそ神様の前に両手を上げなければならないようになった時に、これは今までの信心ではいけなかったと、今までの信心をかなぐりすててそして、いよいよ本当の信心をわからせてもらおうと言うところから、本気で信心がいうならば、とてもそげな真似はできんと言われるような信心は( ? )。だぁーれもしよらない信心修行。こげな修行せなならんなら、とてもとてもというような事、一つもなかった。そして、なら神様の身近に働きを感じるようになって、けれども本当の事のいうならば、人間の本当の助かりという事には届かないおかげの状態の中にあって、本当に神様が言うてくださるように、人間の本当の助かりとは?という助かりを求めて信心させて頂くようになってところから、信心も本格的になってきたのですから、信心が本格的になってさえくるなら、絶対信心ちゃ難しいものじゃない。只、有難いだけに、只勿体無の心がいよいよつのってくるばかりである。ね。これはどうでも皆さん信心をみやすうするためにはね、いうならばいわいる信心を求めるという姿勢を作らなきゃいけない。まず、恩にむくいるように心が育ってこなければなりません。日に日にお生かしのおかげを頂いておる、天地の親神様のおかげを頂かなければ、どんしようのない私達。ね。そういう事がさまざまな事柄を通して実感として分かっておる。それは、私の場合は( ? )きく、ならもうこの人は金光様がなかったら、もうこの世にはいないのだと、あの時もあの時も金光様のおかげで助かってるんだというようなことを、全部は覚えれないですけれども、それを言い聞かされてきた。それが、何時の間にかこの神様の御恩どんわすれよったらばちかぶるといったような(笑い)思い込みがでてきたんでしょうね。私今日は、改めて自分の信心を振り返ってみてはー本当に人が真似できんさまざまな修行をしてきたけれど、私は一遍でっちゃ信心ちゃ難しいなぁと思った事がないなと今日改めてきずかせて頂いた。ほんと。そして、今日にいたっては、信心ちゃ難しかぁと言う時にはね、あたなは今そのおかげば頂かなんことでいっぱいだから難しいと思うのです。ね。信心を求める、いや本当の信心を身につけなければ人間の幸せはありえない。いわば、この世あの世を通しての助かりはないのだと、ならわかった時に、求道いわいる道を求める、信心をいよいよ求め( ? )おられない。この世でその信心をするならば、頂きにきておるだ。ということは、( ? )「この世には魂を清めにきてるんだ」ということが私はわかって信心ができるなら、信心はもうますます有難いものであると同時に、神様がはっきりと(?)には、神様の言うならなんと申しましょうか、そのおかげも身近に感じれるように頂けるし、いわいる天地のリズムが聞こえてくるようになり、リズムに乗った生活ができるようになり、信心はいよいよ楽しい、有難いものに、そういう信心が10年続いたら、我ながら「和賀心を奉れ」というようなおかげになってくる。そういう事になってきたら、もう信心もしめたものだという事になるのではないでしょうかね。どうぞ・・・。